(2012年1月5日に書いた記事です)
年頭なので、一年の計に代わり、日頃、なんとなく意識していることを書いてみたいと思います。
私の大学時代の2人の師のうちのひとり、今は亡き政治ジャーナリスト内田健三先生は、ゼミの最終講義でこんな話をしてくれました。
「社会に出たあとも、毎日、寝る前のほんの少しの時間でいいから、政治や社会全体に思いをめぐらせなさい」
寝る時間には少々早いですが、不出来な教え子として少し、内田先生の本領だった日本政治史をなぞりながら、思いをめぐらせてみたいと思います。
理路整然と間違ったことを言う人物。
そう揶揄されたのは哲人宰相、石橋湛山。戦前のジャーナリストとして自由主義の論陣を張り、東洋経済新報社長を経て、戦後は政治家へ転身、自民党2代目の総裁として総理大臣を務め、その後も日中平和に尽力した人物です。
石橋の主張は常に時流の感傷に流されない、独自の視点と確固たる信念がとにかく際立ちます。
明治神宮の造営事業をケチくさいと一刀両断し、その費用でノーベル賞に劣らぬ明治賞金を設立せよと主張。
帝国主義全盛の時代に、植民地経営の不利益を実証し、加工貿易による立国を目指す植民地放棄論を確立。
占領期の大蔵大臣として進駐軍の駐留予算の削減、インフレ政策推進などGHQを向こうに回しての石橋財政を展開。
冷戦を超えた「日中米ソ平和同盟」を構想し、60年安保の前年に周恩来と共同で周・石橋声明を発表。
厳しい現実と向き合いながらも、楽観的とも言える主張を堂々と行い、実践に向けて行動できるのはなぜか。
どんなテーマに対しても、一貫した姿勢があったからではないでしょうか。
そしてそれは、おそらく以下のようなものでしょう。
「社会全体が、将来にわたって最も実利を得られる手段は何であるか?」
石橋は大きな損得勘定で物事を考える人です。
植民地支配を捨てよというのは、植民地支配による経済のブロック化より、自由貿易で互いの利益を拡大することが、結果、世界を我が領土であるかの如く商圏に取り込むために有効だという戦略です。
明治神宮についても、明治天皇の偉業は、そんな木造建築では語り尽くせない。明治賞金を創ることで、社会に飛躍的発展をもたらした明治帝の偉業を継続し、世界中に人々の心に明治神宮を建てるかの如く構想せねばダメだと主張します。
20世紀に巻き起こった民族自決の時流に対しても、当事者として自覚した人たちのエネルギーを抑えることはできず、むしろ友好的に接して最大限に活用せよというスタンスで臨み、ロシア革命でのソビエト政府の承認や中国の自立を真っ先に主張します。
世間にうごめく利害関係を小欲とし、もっと大欲を狙えというのが石橋の主張の根幹にある。小欲を狙う人々に向かって「あなたの考えていることより、私の考えのほうが、あなたの利益をもっともっと拡大できるのですよ」と、やりこめていく。このやり口が実に気持ちいい。
石橋は、欲を否定せず、それをエネルギーとして、大きなものをつかみにいく。
禁欲では何も生まれず、小欲ではかえって損をする。
平和と自由を手段として大欲を得んとする姿勢に、何というか、明るさを感じます。
そして、石橋は常にスタンスが定まっているので、主張にブレがない。
石橋は首相就任後、高齢での遊説がたたり病に倒れ、2ヶ月を経たずに退陣します。かつて、五・一五事件で濱口首相がテロに倒れ、議会に出席がかなわなくなった際に、首相の任に耐えられないので退陣せよを主張したのを、25年後の自分の身に当てはめ、潔く身を引いたそうです。ライバル社会党からも惜しまれての退陣だったとか。
自分のスタンスを導くための確固たる視点が見つかると、人は前に進む力を強くできるんだと思います。それが自分の中でピタッとハマると、時流に流されることなく、迷いなき道を見いだせるのだろうと。
学生時代、内田先生に「石橋が病に倒れることなく、政権を続けていたら日本は変わっていたか?」と質問をしたことがあります。先生の答えは「派閥の基盤が弱かった石橋は、自民党内で支持を得られず、早晩退陣に追い込まれていただろう」と。壮絶な集票活動で総裁選を辛勝した政権だったので、さもありなん。石橋も、自らの後継を自分とは主張の異なる岸に譲ったところから、やはり基盤の弱さは如何ともし難かったのかなと。戦後保守政治を見続けた第一線のジャーナリストらしい現実的な答えでした。
しかし、内田先生もまた、ジャーナリストとして現実主義的な視点から理想と実利を追求し、新しい社会の創造へ挑んだ人でした。
石橋が倒れ、岸から池田へと保守本流へバトンがつながれる頃、社会党の江田三郎が「江田ビジョン」を掲げたのにあわせ、革新勢力がリアリティをもったオルタナティブになるために尽力したのも、その一例です。
対する自民党で「江田ビジョン」のリアルさに政権交代の脅威を感じたのが、石橋湛山の参謀、石田博英だったというのも、石田が、江田と石橋の将来を描く構想力に、相通ずる気脈を感じ取ったからかもしれません。
※参照:江田五月HP「思いでの走馬灯」
時代は流れ、江田も石橋も世を去ったのち、江田三郎の息子、江田五月が菅直人らとともに社民連を立ち上げ、90年代にはさきがけへと連なり政権交代を実現させます。さきがけには、石橋湛山の孫弟子を自称する田中秀正が合流し、内田先生は連立内閣のトップに座った日本新党の細川首相のブレーンとなります。
先生は後進の育成にも熱心で、私の母校でも教壇に立ち、松下政経塾でも常務理事を務めました。その松下政経塾の一期生が、いまの野田首相。最近のオピニオン誌の評論によると、内田先生が細川内閣のブレーンだった縁から、野田首相は日本新党から国政へ打って出る道が拓けたのだとか。
※参照:「中央公論」2012年1月号
閑話休題。
政治の舞台は様々な曲折を経て現状までたどり着いたものなので、決してあきらめてはいけないとは思いますが、そのためにも、いまを生きるひとりひとりが、石橋、あるいは江田のように、クリアな視点を求めて思考と行動を重ねていく時期なんだろうなと。
年を重ねるごとに、忙しさや油断、甘えなど、日々のいろんな不徳から、目線はついつい低く、狭くなってしまいます。
終戦の日、秋田県横手市に会社ごと疎開していた石橋は、戦後日本の前途は実に洋々たりと、戦争と植民地の重荷を下げた日本に誰よりも早く、明るい発展の道を見いだします。復興が叫ばれ続けるいまだからこそ、戦争による破壊で国内の生産力が大きく落ち込んだあの時代に、すぐさま希望を見た石橋のセンスに学びたいものです。
石橋の主張からは、膨大なインプットと思索の積み重ねの上にある「楽観」の力強さが感じとれます。そうした主張は、理路整然としたわかりやすさがありながら、視点の独自であるがために、常識はずれの間違った考え方だと評されることもある。
石橋は大正時代に、地方分権を説き、官僚主導に警告を発し、ビジネスによる国際社会での地位確立を訴えてきました。100年が過ぎ、いずれも道半ば。
理路整然と間違ったことを言う。国政の大きな場でそういう人物を求めるというよりは、ひとりひとりがそういう視点を持つと、世の中はもっとイノベーティブで、明るくなっていくのではないでしょうか。同調のエネルギーが働きやすいソーシャルメディアにも、無数のオルタナティブが出てくるとき、それを以て社会へコミットする人々のアクティブ率が上がったと言えるようになるのかもしれません。